2022-02-08 巨人の肩に乗る、哲学を開放する
往復書簡とはどのようなものか、について思い巡らせつつ、山本さんがこのように書いている。
などと、つい、こうした際に、自分はなにを感じたり考えたり、経験したりしているのだろうと考える癖があるのは、長年ゲームをつくる仕事をしてきたせいかもしれません。というのも、ゲーム制作とは、それで遊ぶ人の経験(心と体に生じる出来事)をつくる仕事で、制作中は絶えずそのことを考え続けるのでした。とはいえゲームに限らず、文章を書く仕事でも、話す仕事でも似たようなものかもしれません。
自分がなにを感じているのか、には分け入って浸ろうとするが、「なにを経験しているのか」という視点ではそれを見ていないということに思い至る。
どういう違いがあるのかというと、「なにを経験しているのか」ということの方がまったくこの瞬間のことだけではなくそのことを味わわなかった時点の自分からどう変化して、その先の自分へ続くのかという長い尺の視点がある。同時にそれは俯瞰的視点でもある。
そういう、自分の感覚に入り込みすぎずちょっと距離をおいて眺めてみることを意識的にするのはいいかもしれない。というのは、人にものを見せる時に役立つやり方でもあるから。
自分が感じているこのことを他者の内側に生じさせる、という考え方よりも、自分が果たしてどういう経験をしているのか、それを他者に移し替えて考えるとどうなるか、というアプローチのほうが普遍的な広がりがありそうだし、具体的な道が見えてきそうだ。
「知識の沼――ことばで巨人の肩にのる」第2回 今野真二→山本貴光
この往復書簡のタイトルは「知識の沼」です。「沼」ですから、ずぶずぶしているわけです。およそ「線路」とはかけ離れていますが、「知識」というものはそんなものではないかと思います。何かを明らかにしたいと思った時は、いわば「光明」に向かって進もうとするわけですが、どこまでいっても疑問がつきず、「底なし沼」にはまることだってありそうです。脱線は直線的な線路を前提にしている点で、まだまだかもしれません。
「知識の沼――ことばで巨人の肩にのる」第3回 山本貴光→今野真二
索引とは、いうなればその本の成分表示のようなものですね。食料品のパッケージに栄養素などが記されているあの表記と同じように、なにからできているかを示すわけです。
このscrapboxも、ついそこを開いてしまいたくなる面白い「索引」をつけたらどうか。(TOPにつくってみた)
もしかしてこの作業って、のちのちTak.さんがおっしゃっているところの「シャッフル」みたいなことに繋がりそう。 ーーー
『哲学の蠅』刊行記念対談・冒頭シーン/吉村萬壱氏×若松英輔氏(2021年12月9日) https://youtu.be/bLGZDiFTe4g
対談を見ながら、私は何だか偏った人間だな、こういうこともああいうこともできない、と考えるよりもその間を縫って長く面白がっているものをひたすらに追求してきたらよかった(追求してゆけばよい)という風に思った。
(三島由紀夫は頭脳明晰だけれど、決して深沢七郎のようには書けないと言っていることから、自分はそっちを追求しよう、その世界には無限の豊かさや広がりがあるなと気づいた、というようなことから)(あいまい)
どうやらこういうものが好きみたい、こういうことにいつも足が止まるらしい、は分かってきているのに、まだそれを固めずにもやっと広げておきたい、気持ちがあって手綱を緩めて自由に散歩させていたが、とはいえ端から霧散していることも実感している。その部分を放っておいているのはどちらかというとただの怠惰が勝っている、またはゴールにたどり着きたくないという謎の意識からなので、書きつけておかねば。
書きつける、というのは実際に文章にするというよりは、もういちどなんらかのかたちで引き出して、なぞって、手応えを掴んでみて、そうしたらしばらく放ってみてもよい、という感じ。
去年末や今年のはじめに、今年こそそのあたりを鮮やかに掴んでゆくぞ、ゆけそう、という気持ちになったのだった。
褪せさせないようにしなければ。
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[評]若松英輔:哲学の蠅(はえ) 吉村萬壱著
そして彼は、いつの間にかできあがった「哲学」という枠からそれを「解放」しようとする。同質の営みをピカソに見てこう語った。「絵というものは、ふざけた漫画みたいな線描画でも幼児の殴り描きみたいなものでも全然構わないのだという『許可』を、その生涯をかけて全人類に与えた点がピカソの最大の功績だったと私は勝手に思っている。即(すなわ)ちピカソは我々に絵そのものを解放したのである」
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最近はつとめて何でもscrapboxに書き込んでいる。ちょっとしたメモもじっくり考えたいときにも、読んだ本や見た映画、舞台、展示の感想なども。
その時に感じたことや思い出したことなどをはっきり残しておきたいからそうしているのだけれど、やっぱりただノートとかブログに書いてもあとで読み直すわけでもなくただ散らばって消えていってしまうだけなのだが、scrapboxはそこを絶妙に繋げてくれる。(scrapboxってなんだ?についてはこちらに書きました→✎この場所について) ただ、繋げてくれるといってもそこには工夫が必要。自分の中でなにを繋げたいのか、何を掘り起こしたいかを明確にする作業がないとただのメモの羅列になる。
今までは「映画」「読んだ本」「タルコフスキー」というように、話題のテーマとなる単語を#にしてメモをつないでいたのだけれど、もしかしたらそういう方法だけじゃなくて、「私はここに書いたことから何を感じたのか」「このメモの内容は何に繋がりそうなのか」「これは自分の興味のどこをくすぐったのか」というようなことに区分けすることもできるんじゃないの、ということに気づいた。
それがうまくいけば、それは今までブログでやろうとしてできなかった、大事な「自分の索引」のようなものになるんじゃないかな。
コラムやインタビュー、動画を見た時に「誰がそれを言ったか」「どういう情報があったか」よりも、私の中のどの部分に触れたか、ということを残しておきたい。
そのことに一応の名付けをして、#で繋げばいいんだな。